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1.蝸牛角上の思考

――"I want to keep on fusing to fly off in vapour."
(『パスカルの群れ』(『ZABADAK-I』 ZABADAK、1986))



 電は廊下を歩いていた。

 白い壁と天井は何の装飾もなく、時折見える配管がさらに無機質な圧迫感を助長させる。
 原料に使われている油の臭いは既になく、時間の経過を感じさせる床材は濃い緑色をしている。
 ただ、その床は電にとっては学校を連想させた。
 同時に、艦上にいるような感覚を与えるため、建物の雰囲気で冷たくなる心への救いの道である。

 ここは奥槻島と呼ばれる基地の一角。
 激化する深海棲艦との戦いのために増設された基地である。
 名前こそ先の大戦で使用された場所を意識しているが、れっきとした本土の中である。
 そのため、一月の夜ともなれば寒い。
 白い壁が続く廊下は、より一層寒く感じる。
 その廊下の先に、電の目指す場所があった。

 木製のドアにしめ飾り。
 まだ正月の装いをしたその場所の前で、電は立ち止った。
 少し間を置いて、その扉をノックする。
 廊下の蛍光灯の光を受けて、左手薬指が銀色に光った。

「司令官さん、入りますね」
 返事はない。だが、電は意に介することもなくノブをひねった。

 まず目に入ってくるのは、草色の壁とい草の畳の淡い緑である。
 海岸に面する奥の壁には巨大な障子があり、灯台やクレーンの赤い光が微かに明滅している。
 障子の手前、部屋の中ほどには炬燵。やや離れてやかんストーブ。
 ストーブの中は橙色に輝いており、やかんから蒸気が濛々と湧き出ている。
 炬燵からも低い音が微かに聞こえる。ヒーターが動いているということだ。

 ここが、秘書艦である電の仕事場……つまり、提督執務室である。
 暖かい室内に入り、ほぅ、と安堵の息をつく。

 だが、部屋を見回してみるが肝心の司令官が見当たらない。
 仕事の途中なのだろう、いくつかのファイルが炬燵の上に開かれており、紙類が散乱している。
 ということは、急な用事で退出したのだろうか……。

 ふと、電はあることに気付く。
 いつも炬燵の裏に掛けられている電謹製の掛け軸が、今は壁掛け図上演習セットになっている。
 電はそれで察した。
 これは司令官の"演習"なのだと。

 すぐに装備していた22号対水上電探を使い周囲の状況を分析する。
 つい先ほどまで人がいた気配を窺わせる状況と和室(和室なのはいつものことだが)。
 そのとき、妖精が炬燵の上を指差した。
 そこで炬燵の上を再度観察すると……この状況にそぐわない異物があることに気付いた。

 それは、一つのお椀。
 しかも外側は漆黒に蒔絵仕立て、中は朱色で空っぽ。
 紙類が散乱しているこの状況で、中の液体が零れやすいお椀があるのは不自然である。
 しかも、あからさまに日常用ではない。

 電はお椀を手に取って深呼吸をした。
「えっと……"至誠に悖るなかりしか"、なのです!」

「惜しい。」
「はわわわわっ?!……びっくりしたのです!」
 炬燵から声がして、がたがたと揺れた。
 出てきたのは、汗ばんだ司令官だった。
「最後は"願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ"、かなぁ。」
 ちらと、司令官は電が両手で持っているお椀を見る。
「それでも流石は我が秘書艦。状況を的確に判断し、正解を手に取ってくれたね。」
「もう、何回"演習"したと思ってるんですか?」
 電は少し頬を膨らませた。
 それを見て、司令官が笑う。

「いやいや、電は飲み込みが早いからすごいよ。暁は大声を上げながら私を探しに部屋から出て行っちゃったし、雷は「お椀なんかより、私を頼って良いのよ?」って言い出すし、響は、隠れた私を見付けて「司令官、塩を挽く臼はないのか?」と尋ねてきたからなぁ……。」
「……雷ちゃん達にもやった、のですか」
「ああ、お蔭で仕事はまったく進んでない。汗腺の働きは良くなったかもしれないが。」
 大真面目な顔でそんなことを言われても困るのだが、電は口には出さない。
 本当に忙しいときはそんなことはしない、つまり今日は平和だったということだ。

「こうやって、何もない平和な時間も……とっても好きなのです。」
「そうだな……しかし、さっきの回答はなかなか面白いかもしれないな。内省の学ならぬ五省の学となるわけか。うん、面白い。」
「それはちょっと、分からないのです……。」
「いつものように、"波紋が重なった"だけさ。」
 顎に手を添えて司令官が呟いた言葉の反応に困る電。
 それに対し、少しおどけて両手を広げて演習セットを見る司令官。

「そういえば、この演習セットのマグネット……。」
「ああ、懐かしいな。」
 演習セットのマグネットの中に、奇妙なマークのものが紛れている。
 輪郭はちょうどハートマークの尻の部分を丸くした形で、
 反対に頭のくぼんだ部分から輪郭線が食い込んで内側に細長い輪を描いている。
「曰く、みかかマーク。」
「はうぅ……。」
 それは、電が初期秘書艦に着任してから少し経った頃。
 司令官は何の前触れもなく、このマークが何かを電に尋ねた。
 電は意図が読めず、しばらく考え込んだ後にこう答えたのだった。
 一方の司令官は豆鉄砲を食らった顔になり、しばらく考えていた。
 その後の休憩時間に、電はお茶を次いだ。
 しかし、そのお茶を司令官のパソコンのキーボードに零してしまった。
 電は怒られるかと思ったが、司令官は「ありがとう、ようやく分かった!」と言って頭をなでたのである。

「……あのときは、何が何だか分からなかったのです。」
「電が一生懸命考えていたから、きっと何か意味があるに違いない、と思ってなぁ……。でも、それが分からなくてずっと考え込んじゃったんだ。結果的に、電自身が答えを教えてくれたけど。」
 司令官はそう言って部屋の隅の棚から汚れたキーボードを取り出した。
「……お茶と一緒に、ね。」
「司令官さん!」
 まだ持ってたのです?!と電の声が響いた。
「他人にとってどうでも良い、ガラクタみたいなモノでもさ……そのモノに刻まれた出来事を知っている人からすれば、それは立派な宝物だよ。」
 それは同時に人が歩いてきた道を思い起こさせる道標でもあり、スーヴニルでもあるけど、と付け足す。
 そして電は、たった今"補習"が始まったことに気付いた。

「人は生まれたときは親から与えられたもの以外に何も道しるべを持っていない。だけど、歩き初めて、歩けば歩いた分だけ、残される道標が増える。やがて他人と道が交わり、道標を持ち寄って新しいモノができるかもしれない。その瞬間を、私は見てみたいんだ。」
 だから、自分が持っているものを見せるために"演習"と称したクイズを行うのだ、と。
「電がもしあの回答をしなければ、私は今もあのマークの説明に窮していたかもしれない。あの出来事は些細な出来事ではあったけれど、私にとっては久しい感覚だったからね。」
「波紋が重なる、ですか?」
「そうだ。」
 あのときの演習は、図形の名前を答えさせることはあくまで導入に過ぎなかった。
 図形の名前は確か、カタツムリ。パスカルのカタツムリ。
 電は、自分の名前からデンデンムシの連想で覚えていた。
 そう、カタツムリには色々な名前がある。
 カタツムリ、マイマイ、デンデンムシ……。

 ある村の中ではカタツムリと呼ぶ。
 だが、外に向かうに連れて伝言ゲームのように呼び方が徐々に変化していく。
 まるで広がっていく波紋が小さくなっていくように。

 では、隣にデンデンムシと呼ぶ村があったとしよう。
 このとき、両方の村の間にいる人達は、何と呼ぶのだろうか?
 二つの波紋が広がり、ちょうど重なった場所。
 この図式のように、異なる概念が重なったとき、何が起こるのか。
 その"波紋の重なり"を見たいのだ、と司令官は熱く語った。

 この話をするためだけにパスカルのカタツムリを持ち出した司令官は、かなり変わっていると思った。
 今となってはもう慣れたもので、だいぶ話にも付いていけるようになった。

「いつか波紋の重なりから、何か面白いモノが生まれやしないか……私はそう思って、ここにいる。」
「そう、ですね。」
 司令官は障子の外を眺めている。
 水平線の彼方は闇夜に溶け、海と空の境目は見えない。
 それでも司令官はその闇を見つめていた。

 より長く同じ時間を共に過ごしたら。
 いつか、司令官が見ているものが自分にも見えるだろうか?
 たぶん、司令官は自分よりも遙かに遠くを見ている。
 もっと遠くを見るために、この夜にまどろんでいたい。
 そう電は思った。

 2675年、睦月上旬のある一日であった。


「……ところで、電。何か連絡があったんじゃないの?」
「はにゃぁっ?!そうなのですっ!……えっと、大型建造が終わりました。」
「ああ、朝に号令を出した8時間……。」
「なのです。」

――戦艦・大和が建造されました。